第14回 いかなごのくぎ煮文学賞入賞作品

グランプリ
俳句:甘辛き世のいかなごや釘煮炊く 大和田よつあし さん(神奈川県・男性・55歳)
〈三田完・特別審査委員長講評〉
くぎ煮の甘辛い味わい。そして、楽あれば苦もある人生。両者を重ねた作品です。甘さのなかの苦さ、苦味のなかの辛味-といった感覚の複雑さこそ俳句の味わいだと思います。本文学賞では「くぎ煮」を春の季語として認めていますが、通常の歳時記では「いかなご」が季語です。この句はどの歳時記にも堂々と載せられる正統派の俳句作品と感服しました。
準グランプリ
エッセイ:九谷焼の皿 月松かもめ さん(兵庫県・男性・46歳)
 父の趣味は骨董収集である。骨董の皿を手に、持ち神妙な表情で眺める父の顔。しばらくの間眺めた後、いつも笑顔をほころばす。そんな父の表情を見ていると、本当に骨董が好きなんだなと感心してしまう。
 何であれ、本当に好きなものに出会えた人生というのは幸せだろうと思ってしまうからだ。そんなある日の休日のことであった。夕方、父ががっくりとした表情で家に帰って来た。手には風呂敷をぶらさげている。
 母が心配気な表情で、憔悴した顔の父に尋ねた。「あなた、なにかあったの?」 手にした風呂敷を床にドンと置き、リビングのソファーに深々と腰を沈めると、大きなため息を一度吐いて重い口を開いた。「実は知り合いの骨董商に鑑定して貰ったんだ」
 なんとなく父の表情から言わんとしたことが読める。ここで嘘をつき、実はドッキリでしたと相手を驚かすタイプではない。父は話を続けた。「偽物だったんだ。九谷焼の皿」 案の定であった。
 母が尋ねた。「九谷焼のお皿って、もしかして、あなたが一番大切にしていたお皿?」「あぁ…その通りだよ。寝耳に水とはこういうことを言うんだろうね。まさか偽物だったなんて」
 父が九谷焼の皿を眺めながら零した笑顔が鮮やかな印象として頭に残っていたゆえに、その対比が強烈である。宝物がガラクタと告げられたら、それは辛いだろう。
 こんな時、一体どんな言葉をかけたらいいのだろう? 「まあ、仕方ないよね」 そんな安易な言葉はかけられない。するとだった。母が意外な言葉をかけたのだ。「実はあの九谷焼のお皿、料理に使ったら凄く映えるなって、前から思っていたの。だから私にプレゼントして下さらない?」
 父は苦笑し、床の風呂敷を解くと九谷焼の皿を取り出し言った。「九谷焼の皿、お前命拾いしたな。もう捨ててしまおうと思ってたんだ。母さんに感謝しろよ」 九谷焼の皿はホッと安心のため息を漏らしたかのように見えた。
 翌日。九谷焼の皿に盛られたいかなごのくぎ煮。九谷焼の皿の第二の人生が始まったのであった。
〈三田完・特別審査委員長講評〉
骨董好きの父上にまつわる一篇です。さほど長くない文章ですが、モーパッサンの短篇を味わうような興趣がありました。皿に盛られたくぎ煮の味も、さまざまに読者の想像を誘います。
郵便局賞
エッセイ:ナイショ はる さん(埼玉県・男性・7歳)
 じじとばばがケンカして、ばばが古いごはんを出しました。そのあと、クギニも出したけど、それも昔のやつでした!たきたてはぼくがたべました。
〈三田完・特別審査委員長講評〉
お伽噺を読むようなほほえましい文章。じじとばばの暮しぶりを7歳の眼がきちんと見ています。そして、一家の暮しには重要なアイテムとしてくぎ煮が。
特選(俳句)
俳句:いかなごを煮て曇らすや窓の月 木村隆夫 さん(埼玉県・男性・74歳)
〈三田完・特別審査委員長講評〉
夜、ことこととくぎ煮を炊く厨房。窓には皓々たる月が。室内の蒸気のせいか、月の輪郭が心なしか滲んで見えます。格調高い写生句。
特選(短歌)
短歌:イカナゴの命すくふや二枚貝〝栄養塩〟を吐くといふなる 小竹哲 さん(兵庫県・男性・61歳)
〈三田完・特別審査委員長講評〉
播磨灘の漁業者がイカナゴ再生に向けて二枚貝の放流をおこなっている。二枚貝は〝栄養塩〟と呼ばれる窒素やリンを排出し、豊かな海の再生に効果がある。…というニュースを題材にした一首。このような手法を短歌の世界では正述心緒(せいじゅつしんしょ)といいます。事実を淡々と伝えながらも、その裏にあるのは作者の強い祈りです。
特選(川柳)
川柳:米がない いかなごもない 春来ない みんみ さん(大阪府・女性・29歳)
〈三田完・特別審査委員長講評〉
炊きたてのご飯とくぎ煮…かつては庶民にとってつつましいご馳走だったというのに、両方とも店頭から消えてしまった。そんな怒りがストレートにほとばしった一句です。米不足を嘆く川柳は他にもありましたが、この作品の迫力勝ちでした。
特選(詩)
詩:母である人 小田凉子 さん(兵庫県・女性・78歳)
いかなごの稚魚 新子の漁が解禁になる三月
その日の入荷を待つ主婦たちは
朝から店に列を作る

その人も 新子二パック二キロを買い
帰りのタクシーを拾おうと
風の吹く中 店先に一時間立っている
足元に二個の大きなレジ袋
杖をついたその人の両脚には 人工骨が埋まり
寒さにピリピリと痛みがはしる
八十歳をとうに過ぎたその人の
伴侶は身体の自由を失い 
復興住宅の自宅から介護施設に移った
その人は 今 一人暮らし

今日は その人の息子がやってくる
新子の釘煮を持たせてやりたい
今の時季ならではの釘煮
これまでと同じように食べさせたいと
母であるその人は
私の足で10分ほどのこの店に
タクシーを呼んでやってきた
〈三田完・特別審査委員長講評〉
わが子のためにくぎ煮を炊こうと不自由な脚で買物に来た老婦人をスケッチした作品です。抑制の効いた表現が読者を深い感動に誘います。
特選(エッセイ)
エッセイ:いかなごに会いたい まんぷくねこ さん(神奈川県・男性・31歳)
 兵庫を離れ、10年近く経った。その間に結婚もして、子供も生まれ、いつか関西に帰るぞという気持ちとは裏腹に、夢のマイホームは関東で見つけた。順風満帆とはいかないが、日々の小さな幸せをかみしめている中、いかなご不漁のニュースは遠い遠い関東にも届いた。
 ここ数年は実家に帰っても口には出来ていなかった「いかなご」。久しぶりの対面がテレビ越しだとは思ってもみなかった。私が小学生の頃には、値段なんて気にすることもなかった「いかなごのくぎ煮」。いつの間にか、出世もせずに、高級魚に。
 私の中にある兵庫の心が叫んでいるのだろうか。「いかなご」を見た瞬間に、くぎ煮の甘辛さが思い出された。我が子もようやく色んなものを口にするようになった今、子供にも「いかなご」を食べさせたい。教えたい。そんな気持ちが湧き上がってきた。
 しかし、ないのだ。どこにも「いかなご」がいない。会っていない間に居なくなってしまったのか。どこか人間関係に近いものを感じる。我が子にパパの身体を作ってくれた「いかなごのくぎ煮だよ」と、話しかけるシミュレーションもしていたのに、どうやら本番はまだまだ訪れないようだ。それが叶うのはもう少し先なのかと落胆している自分がいた。
 でも、もう少し先であっても、叶うのであればまだいい。叶いそうもない願いにならない事を祈るばかりだ。
 そうはいってもくぎ煮欲は収まらない。調べると、「シラス」でもくぎ煮が作れるという記事を見つけた。スーパーに走り、シラスとショウガと山椒を手にする。山椒が入っているのは正解か分からないが、母の味である以上、私の中の正解である。
 レシピを見ながら作ってみる。思っていたよりは簡単にできた。匂いも幼少期の自分を思い出すには申し分なかった。実食。美味しい。止まらない。自画自賛で申し訳ないが、完璧な「くぎ煮」に仕上がったと思う。
 ただ、「美味しいくぎ煮」ではあっても、「いかなごのくぎ煮」ではなかった。特有の歯ごたえ等は無く、どこか物足りなさを感じる。「いかなごのくぎ煮」は「いかなご」でないとダメなのだと突きつけられた。
 また、「いかなごのくぎ煮」が食べられる日を祈るばかり。
〈三田完・特別審査委員長講評〉
兵庫出身で関東在住の作者、ある日、イカナゴ不漁のニュースを見たのがきっかけで、故郷の味への欲求がふつふつと沸き起こります。
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
エッセイ:無題 ババママ さん(兵庫県・女性・52歳)
 父は母がいないとダメな人でした。四人姉妹の末っ子の父は甘やかされて育ち、結婚してからもゴミ捨ても行かない亭主関白そのものの父。その父が母との突然のお別れに、娘のわたしが大好きな母を失ったのに、まったく涙も出なかったんです。
 憔悴した父親を心配する気持ちが上回っていたんだと今は思います。亡くなって2週間、父に付き添って家事を伝授。70歳越えてから一から覚えるなんて、娘からしたらそばで見ていて不憫でしかたなかった。幸い三姉妹の私たちはそれぞれの分担で父をサポート。なんとか生活していたある日。
 母が亡くなって初めてのいかなごの季節。父は私にいかなご買うから、作りに来てくれと。
 ただ、三姉妹の中で唯一母のいかなごを炊けるわたしは仕事が忙しくて行けず、無理だと断ったんです。
そしたら父から、自分が炊くから買ってきたと言うじゃありませんか!!お料理もまともにできない父が作り方を教えてくれと。
 私は泣きました。行ってあげられないもどかしい気持ち。そして、母が毎年、東京に住む次女にいかなごを送っていたので、父も同じ気持ちで食べさせたい一心で作ったと、あとから話してくれました。
 こんなに人は変われるのかと、その時に思いました。母が生きてるときに父のお料理を食べさせてあげたかった。
お味は思ったより美味しくできていました。
 いかなごの奇跡とうちの家で毎年話題になります笑笑
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
亭主関白で料理を一切したことがなかったお父様が奥様が亡くなった後、「くぎ煮」を炊くという「奇跡」。いかなごのくぎ煮をきっかけとする小さな奇跡がたくさん存在していそうです。
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
川柳:まずくぎ煮めしめしくぎ煮めしくぎ煮 烏蘭 さん(長野県・男性・47歳)
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
いかなごは不漁、加えて米不足。それでもくぎ煮があれば、とにかく白ごはんをもりもり食べられます。そんな姿が目に浮かびます。
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
エッセイ:無題 はっこゆ さん(岡山県・女性・36歳)
 いかなごのくぎ煮を見ると思い出す人がいる。約30年前、隣りの借家に引っ越して来られた年配のご夫婦。当時小学校1年生だった私は知らなかったのだが、そのご夫婦は阪神淡路大震災の被災者の方だった。神戸で被災し、岡山に越してこられたのだそう。
 被災してつらく苦しい思いも抱えていらっしゃったことと思うが、本当に穏やかで優しいご夫婦だった。私や弟が庭で遊んでいると、声をかけてくれたり、スカートがほつれているのを見てさっと直してくれたり、おいしいものをもらったからとお裾分けしてくれたりと、とてもよくしてくれた。
 そんなある日、我が家の食卓に初めて見る食べ物が並んだ。つやつやした茶色い小さな魚。食べると甘辛くて、ご飯がどんどんすすんでしまう。「お母さんこれなに?」と尋ねると、「いかなごのくぎ煮っていうんだって。おばちゃんが炊いたってくれたんよ」と。私も弟もおいしくて、ばくばく食べ、あっという間に食べきってしまった。
 おばちゃんにそのことを伝えると、作り方を教えてあげるとレシピを書いて母に渡してくれた。母の炊いてくれたいかなごのくぎ煮もおいしかったけれど、おばちゃんの炊いたものとは少し味が違い、母も「おばちゃんの作った方がやっぱりおいしいなぁ」と言っていた。
 おばちゃんはそれから数年後、「やっぱり住み慣れたところがいいから」と言って、神戸に帰って行った。おばちゃんが引っ越して行っても、食卓には母が作ってくれたいかなごのくぎ煮が毎年並んだ。母からレシピを教わり、今では私も毎年炊いている。甘辛い優しい味のいかなごのくぎ煮を食べると、いつもにこにこしていて優しかったおばちゃんを思い出す。
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
阪神大震災の後、岡山に引っ越されていた被災者ご夫婦の記憶。30年経ちましたが、「くぎ煮」をきっかけに思い出される記憶は人それぞれたくさんありそうです。
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
エッセイ:移ろい 弘美 さん(東京都・女性・42歳)
 幼い頃、毎年春になると、父方の神戸の祖父母から大きなお弁当箱いっぱいに詰められたいかなごのくぎ煮が届いた。おそ700〜800グラム×2ほどの大量だった。神戸へ御礼の電話するのは私の役割だった。
 近くに住む母方の祖父母の元へ半分を届けに行くと、東京生まれ東京育ちの、いつもはちゃきちゃきした威勢の良い祖母が、少しよそ行きの品のある声色で、神戸へ御礼の電話を掛けていたのを覚えている。
 それから、しばらくの間、毎日のように我が家の食卓には必ず、いかなごのくぎ煮が登場した。有田焼の容器に詰め替えして、冷蔵庫で冷やされたいかなごのくぎ煮を、温かいご飯に乗せて食べる。甘辛じょっぱくて、生姜の効いたその味は、子どもの私にとっては特別美味しいと感じるわけでもなく、ご飯を食べるときのふりかけ替わりのようなものとして捉えていた。
 遠足のおにぎりの具にもなった。だいたい5月くらいまで食卓に並び、その頃には正直飽き飽きしてしまっていた。父と母が離婚するまで、春はいかなごのくぎ煮と共に過ごした。
 月日は流れ、職場仲間の女性3人で神戸旅行に行った。大人になって、神戸目当てでゆっくりと街を楽しむのは初めてだった。季節は春。生田神社、さんちか、旧居留地、メリケン波止場、北野異人館街などを巡り、それなりに舌も肥えた42歳の私は、小洒落た洋館でのランチや明石焼き、神戸牛などのグルメも堪能した。
 お土産に何を買って帰ろうか、と考えて、いかなごのくぎ煮のことを思い出した。神戸阪急の地下でお店の方に伺うと、今年は不漁でとても少ないが、生鮮売場なら新物を出しているかもしれないとのこと。生鮮売場に向かうと、「いかなごのくぎ煮」の幟が見えた。100グラムで3、780円。数も少なかった。不漁とはいえ、ギョッとするお値段に少し躊躇したが、久しぶりにあの味を思い出したかったので購入した。
 東京の家に帰ってきて、晩酌しながらいかなごのくぎ煮を一口食べた。春の味がした。子どもの頃を思い出した。とっても美味しい。スマホ片手に、くぎ煮.jpに行きついた。歴史や作り方など、初めて知ることがたくさんだった。
 あの頃、神戸の祖父母はきっと東京で働く息子とその家族に神戸の味を届けたくて、手間ひまかけて一生懸命、大きな鍋いっぱいに作っていたのだろう、と想像した。神戸の祖父母とは長らく疎遠であり、おそらくもう亡くなってしまっている。同様に父にも20年以上会っておらず、どこでどうしているかもわからない。2年前に母が亡くなったことさえも伝える術がない。
 あの頃の登場人物ほとんどに、もう二度と逢うことはできない。わたしにとって、いかなごのくぎ煮は春の味。幼い頃の思い出の味。そして今、家族を思い出す酒の肴に変わった。
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
「くぎ煮」をきっかけに思い出される疎遠になったお父様とそのご両親。その「くぎ煮」のレシピはまた誰かに受け継がれているかもしれません。
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
エッセイ:祖母のくぎ煮 ゆい さん(大阪府・女性・高2)
 いかなごのくぎ煮文学賞というものがあることを知って、私はすぐに応募しようと決めました。いかなごのくぎ煮には本当にお世話になったので、俳句などではなくエッセイとして、できるだけ沢山語ろうと思います。嘘だろうと思うかもしれませんが、このことが少しでも多くの人に伝わって欲しいと思います。
 私が初めていかなごのくぎ煮を食べたのは約一年前です。それまで料理に興味を持たなかったので、恥ずかしながらくぎ煮という存在を知りませんでした。
 私がくぎ煮を知るきっかけとなったのは、母が入院したことでした。去年の春、私の母は突然入院することになりました。乳がんのステージ3でした。家には私と弟と父だけになりました。弟と  父は部活動や仕事で帰りが遅くなるため、私がすべての家事をすることになりました。
 母がいない日々はまるで大きな丸で大きな穴が空いたようで、孤独感に襲われました。家事をすることも、学校に行くことも、何をするにも気持ちが沈んでいました。もしかしたら死んでしまうのではないかと思うと、涙が出てきてとても辛かったのを覚えています。
 そんなとき、祖母が私たちを心配して駆けつけてくれました。祖母は私たちが少しでも元気になるようにと、美味しいご飯を作って来てくれました。その中に茶色の小さな魚の料理があることに気づきました。このとき私は初めてくぎ煮という料理を知りました。
 いかなごのくぎ煮は母の好物で、祖母は昔、母によく作っていたそうです。食べてみると、甘辛くて美味しくて、心がホッとする味でした。くぎ煮を食べていると母を思い出して、ふと涙がこぼれそうになりました。
 そんな私を見て、祖母は私の手を優しく握ってくれました。その言葉で、私は少しだけ心が軽くなりました。母が入院している間、祖母の存在は私にとって大きな心の支えになりました。
 その後、母は手術に成功し、無事退院することができました。母が退院してもうすぐ一年が経ちます。母は体力も戻ってきて、今まで通りの生活に戻りつつあります。私は今度、母と一緒に祖母の家にくぎ煮を食べに行こうと思います。母の好物であり、私の心の支えになったくぎ煮を食べに。
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
1年前に「くぎ煮」を知った高校2年生。お母様の病気、良くなって本当に良かったですね。是非お祖母様のレシピを受け継いでください。
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
エッセイ:いかなごは生きてる証 貞本彰子 さん(山口県・女性・63歳)
 2020年大晦日に父が亡くなり、葬儀が終わってほっとする間もなく、年金や相続など様々な手続きが娘の私に次々と押し寄せる。父が書斎に使っていた二階の小さな物置き部屋。生前、父は、認知症の母の介護の合間に、ここにこもって家計簿、日々の介護記録や日記をつけていた。
 大切な物はこの部屋にあると知っていた私は、必要な書類を探していると、大量の郵パックの送り状の控えと手紙が出てきた。1995年の震災後、自宅再建のための支援をしてくださった友人、知人、親戚…かなりの枚数のそれら全て品目は「いかなごくぎ煮」。そして、いかなごのお礼の父宛の手紙の束。
 震災で長田区の自宅が全壊し、西神の仮設住宅に避難してから、父は癌の手術や自宅再建の準備などで苦労しながら、一方で、いかなごのくぎ煮作り、ひょうたんや花作り、花見など近所の人たちと仮設生活を共に楽しんでいた。山口県から帰省する私たち家族にも、自信作のひょうたんやいかなごのくぎ煮を持ち帰らせてくれた。春には出来立てのくぎ煮、夏には冷蔵庫で乾燥したくぎ煮。
 1998年に長田区の自宅を再建してからもくぎ煮作りは欠かさず、パックに詰めては、こんなにたくさんの人に送っていたのだ。「いかなごは生きている証」。そう言えば、父はそんなことを言っていた。
 何年も続いた父のいかなごのくぎ煮が途絶えた2014年。父も認知症と診断され、母は施設に入り、一人暮らしの父は近所の人からいかなごを頂くようになり、病気をして入院した2017年、退院と同時に父も施設に入所した。
 2020年父を見送り、1年後に母も逝き、神戸の実家は昨年の夏、処分した。
 山口県ではいかなごのくぎ煮はほとんど見ない。父の生姜の効いた甘くて辛いいかなごのくぎ煮が、春の訪れを感じる今、無性に食べたい。
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
阪神大震災のお見舞いのお返しに「くぎ煮」を送ったことで全国に広まった、という説を裏付けるエピソードです。あれから30年、あっという間のような気がします。
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
エッセイ:先生これもっていきー 研修医みなお さん(兵庫県・女性・40歳)
 いかなごの季節になると、いつも田舎の病院の優しいおばちゃん看護師さんや怖かった上司を思い出す。
 20年ほど前、医者三年目だったころのこと。大学病院で勤務し、医局からの指示で兵庫の病院で週一回アルバイトしていた。割り当てられた病院は姫路駅からさらにバスで一時間ほどの、のんびりした田舎の病院で、朝五時半の新快速に乗って通っていた。
 農業も盛んな地域で、イチゴやトマトが名産だった。そこの看護師さんはいくたびに、柚子みそやイチゴジャム、そして、いかなごの時期にはいかなごをくれた。大阪出身だった私にとって、いかなごは店で買うものだったが、兵庫で住むようになってから、いかなごの時期になるとザラメやタッパーやみりんが店にならび、みんながいかなごの値段や炊いたかどうかを話題にするのに驚いた。
 見よう見まねで炊いてみたが、果たして正解が何なのかよくわからず、受け継ぐ家庭の味がある皆様をとってもうらやましく思った。怖いと評判だった上司が、実は日本酒のつまみにいかなごを毎年奥さんではなく、自分が炊くんだと聞いて、教えてもらった。新聞の切り抜きに上司が+みりん50㏄と書き加えたレシピが、私の定番の味に落ち着いた。
 上司とは何度も緊急オペを行い、一か月以上入院しなければならない重症の患者さんもたくさん診てきた。病院のご飯は味気ないんやー。と家のいかなごのくぎ煮を常備している患者さんが多かったこと! うちのは山椒をいれてるんやで、うちははちみつや。病室に様子を見に行くと、みんなコツを教えてくれた。
 それから10年もたたないうちに、いかなごは幻の風物詩になってしまった。上司の伝えてくれた生姜多めの甘辛なくぎ煮を懐かしく思う。若いころの苦労は買ってでもしろ、と言うように、たくさんの経験があった。いかなごを食べると、やっぱり一度は駆け出し医者のころの歯がゆさや涙したことを思い出すのである。
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
「くぎ煮」を若いお医者さんにプレゼントしたくなる気持ちが良くわかります。入院の患者さんがそれぞれ自分好みの「くぎ煮」を持ってきているというエピソードがとても興味深いです。
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
エッセイ:祖父の応援!くぎ煮 原誠 さん(大阪府・男性・29歳)
「くぎ煮だ。くぎ煮をたくさん食べろ。頭は良くなるし、イライラしなくなる。絶対、合格する」
 十四年前の私の高校受験の時だ。緊張し、不安でいっぱいの私に、祖父は何度もくぎ煮を勧めた。そして、ほとんど毎日くぎ煮を持って来てくれた。歩いて十五分くらいの距離とはいえ、足の悪い祖父には大変だっただろう。
 祖父の娘である私の母は、「これがあると他には何もいらない」というほどのくぎ煮好きなので、大喜びしていたが、私は少し複雑だった。もちろん、私もくぎ煮は大好物だ。祖父に感謝もしている。だが、その気配りがプレッシャーでもあった。
「落ちたらどうしよう。じいちゃん悲しむだろうな」
 緊張と不安は増すばかり。そのうえ母は弁当に夕食におやつにと、くぎ煮をだしてくる。
 受験当日。午前中は得意科目の英語などだったので、何とか乗り切れた。問題は午後の数学、一番の苦手教科だ。私は暗い気持ちで弁当のフタをとった。するとそこにはご飯の上にくぎ煮で「アホ」とあった。私は笑いそうになるのを何とかこらえた。緊張がゆるみ、何故か幸せな気持ちになった。そのおかげか、くぎ煮効果か、午後の数学もリラックスして解くことができた。
 帰って母に尋ねると、あれは祖父の提案だったという。
「ガンバレなんて書くと逆効果。アホと書いて笑わせてやれ」と祖父は言ったらしい。
 幸い私は合格した。祖父は涙を浮かべ、尋常じゃないほど喜んでくれた。
 二年後、祖父は世を去った。その深い愛情と思いやりは、私の一生の財産だ。そして、あたたかい御版といっぱいのくぎ煮を食べるとき、何よりの幸福を私は感じる。
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
ガチガチに緊張する受験の日。リラックスさせるためにお祖父さまが考えた「くぎ煮」を使ったとても楽しいいたずら。私もいつかやってみたいです(笑)
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
エッセイ:十二年目の新子 ミネ さん(兵庫県・女性・42歳)
 我が家でいかなごを炊き始めた時のことは、はっきり思い出せる。子の保育園のお迎え時間に、其処かしこからすき焼きみたいな甘い匂いが連日立ち込めていた。ハハァ、さてはこれがかの有名な風物詩かと気づきそれで、丁度ならし保育が終わりの頃ということもあり一度くらい試しに炊いてみようと、新子を買い求めてみたのがはじまりだったからだ。
 産休が明けようとする不安の中、気分転換に何かがしたかった。未知の食材を恐る恐るレジに持って行き、インターネット先生に教えを請うた。一匹たりとも逃がさぬよう、柔らかく水洗いをしてから、寸胴にザラメ醤油の中に大量の生姜をきざみ入れ、沸騰させ、その後の作業が実に楽しい。
 ふつふつ煮汁が沸いて来たところに、新子をひと掴みパラリ撒き、別の箇所の新たな沸きどころを目掛けてはパラリパラリ投げ入れる。市場で見るのと違う、白くてやわそうな小魚が積もりあがっていくだけの鍋の中身に不安になりながらも、どのレシピにも書いてある忠告を守り、焦げが怖くてかきまぜたくなるのをぐっと堪え、穴空きアルミホイルの蓋を落とし、段々泡で炊くという意味を理解する頃、鍋を揺すり、辿り着いた先に釘煮ができ上っていた。
 それから、なんとか時間を見つけては毎年炊き続け、勿論、成長する息子の大好物となった。今年は二キロで一万円超えの新子を本当にドキドキしつつ意地で購入した。
 この家からあの匂いがしているのだろうなと鍋を揺すり、竹笊の上で煮汁を切り冷ます頃合いに、小学校から息子が帰宅してくる。案の定忙しなくドアを開けて手を洗うなり、台所に来て、今朝の残りのご飯をてんこ盛りにしようとしていたので、ご飯温めんでいいん?と問うと、冷やご飯がいいねん!との張りきった返事があった。出来立て限定のぬくい、いかなごを載せた少し固い冷や飯がこの日の彼のおやつがわり。
 来年あたり、タイミングさえ合えば、そろそろ一緒に炊いてみようか、うちで炊きはじめた時は、あなたまだ糊みたいなお粥食べてたんやで、などと話でもしながら。
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
インターネットで調べて、まったく新しく自力で「くぎ煮」作りを始めたエピソード。くぎ煮振興協会もやってて良かった、と思えます。
いかなごのくぎ煮
振興協会賞
エッセイ:無題 あめのみや さん(兵庫県・女性・27歳)
「わあ、あんたのマフラーからいかなごの匂いするで。」
 高校生の時、友人のマフラーからいかなごの匂いがすると、大笑いしたことをふと思い出す。
 わたしは六甲山の近くの高校に通っていた。この時期のお弁当のおかずは、各家庭で作られたいかなごのくぎ煮がレギュラーメンバーだった。スカートが人一倍短い女の子のお弁当にもいかなごが入っていた時は、大層ほっこりしたものだ。
 あれから10年。東京で一人暮らしをしていたわたしは、この春、住み慣れた兵庫の地へ戻ることにした。3月になっても、気温はまだまだ冬と変わらない。引越しの準備をしていると、部屋はどんどん殺風景になっていき、そのせいか暖房をつけているのに肌寒い。
「お腹が減っているせいかな」
 時計を見ると、とっくに昼を過ぎている。怠惰な生活を送っている私は、避難用のパックご飯にふりかけをかけながら、自家製の釘煮の味を思い出していた。
「ちょうどいかなごの時期か」
 東京で一人暮らしを始め、いかなごが関西、しかも兵庫県の郷土料理であることを知った。東京で「いかなご」という魚を知っている人は関西出身者だけで、その話ができる人とはあっという間に仲良くなれたものだ。
 とうとう地元に帰る日がやってきた。わたしの上京をかなり心配していた母は、最寄り駅まで迎えに来てくれた。乗り慣れた車の助手席に座った途端、〝帰ってきた〟ことを実感する。私はおもむろに言った。
「いかなご食べたい」
 すると、母もすかさず言った。
「あんた、そんなん高くて買えますかいな。今年のいかなごの値段知ってる?1キロで8千円やで」
 1キロで8千円、ということは百グラムで千円程度ということだ。どうらや私が知らないうちに、いかなごはかなりの高級品になっていたらしい。
「じゃあまた来年か」
 あの甘辛くて優しい歯応えのいかなごのくぎ煮、来年こそは熱々の白いご飯にのせて食べたい。もう1年、おあずけになってしまったな。
 懐かしい味に思いを馳せていると、非情な、でもどこか嬉しそうな母の声が車内に響く。
「来年はもっと高いで」
〈山中勧・いかなごのくぎ煮振興協会事務局長(株式会社伍魚福社長)選評〉
マフラーから香るいかなごの匂い。東京での暮らしの中で「いかなご」の話題で盛り上がること。若い方にも「くぎ煮」文化、受け継がれていてうれしいです。

ジュニア部門

グランプリ
短歌:いかなごの 影も見えぬと 浜の声 母は黙りぬ 鍋は鳴らずに ふけっけ さん(埼玉県・男性・高3)
〈三田完・特別審査委員長講評〉
作る者にとっても食べる者にとっても、春の大切な行事であるくぎ煮。しかし、きょうは海の恵みが手に入らない…肩を落とす母の悲しみがしみじみと伝わってくる高校生の作品です。
準グランプリ
エッセイ:母の味は ヤロークン さん(兵庫県・男性・中3)
「朝ごはん出来たで。もう起きよ」
 母の声が聞こえる。実は既に起きていた。十分に熱したフライパンの上で、溶きたての卵が踊る。その音は耳のごちそうだった。
 起き上がり、カーテンを開ける。春の陽射しに思わず目をつむる。着替えを済ませてキッチンへ行くと、テーブルの上には炊きたてのご飯とおみそ汁に玉子焼き、そしていかなごのくぎ煮が用意されていた。
 いかなごのくぎ煮。これまで口にしたことはなかった。食べず嫌い、というやつだ。食べ物に対してこんなことを言うのは良くないのだが、その色をふくめた見た目に何となくの抵抗があった。その心が顔に出ていたのだろう。母は、
「まぁ一回食べてみたら」
 その言葉と笑顔に背中を押されて、僕はおみそ汁を置き、くぎ煮を口へ運んだ。まず口の中に広がったのは、しっとりとした甘みだった。次に生姜のさわやかな風味が続く。なんや、意外と美味しいんや。また僕の心を読んだのであろう母が、
「まだまだあるで」
 と言って笑った。僕は肉も好きだが、元々海の幸は大の好物だったので、白いご飯とともに箸が進んだ。
 母の味、という言葉があるが、このいかなごのくぎ煮の味は、まさにそれだった。母が言うには、各家庭によってそれぞれの味があるらしい。素材が同じでも、作り方や味付けで違いが出てくるのだろう。おかわりしたご飯を食べながら、
「もっと前から食べとけばよかったなぁ」
 心の声を顔に出さず、今度は声に出して母に伝えた。母は僕よりもずっと早くに起きて作ってくれていたのだ。とびきりに美味しい、このいかなごのくぎ煮を。母の味は、母の愛情そのものだった。
〈三田完・特別審査委員長講評〉
食わず嫌いでくぎ煮が苦手だった中学生。母親の笑顔に背を押され、初めて口に入れた実感は…。
特選
俳句:春風に くぎ煮の甘さ  ほころぶ日 ルイボスティー さん(沖縄県・男性・中1)
〈三田完・特別審査委員長講評〉
くぎ煮の味わいがほころぶ…という表現が新鮮でした。くぎ煮を口に運ぶ家族の顔も、もちろんほころんでいることでしょう。
特選
川柳:トランプも 関税免除 するくぎ煮 愛の花 さん(千葉県・女性・中1)
〈三田完・特別審査委員長講評〉
大人たちの川柳には「関税」を扱ったものが数点ありましたが、中学生も世界情勢に興味津々です。トランプ大統領がいかなごのくぎ煮を旨そうに食べている風景を想像すると、なんとも可笑しいですね。
特選
エッセイ:いかなごの釘煮をこれからも食べたい 和田絢太郎 さん(兵庫県・男性・小5)
 僕が生まれたころは、イカナゴはスーパーでもたくさん売られていたそうです。しかし、去年は漁ができた日は一日間、今年は三日間と、とれる量が減ってきていて、僕が小さいころより貴重な存在になってきています。だから、近所のスーパーでも毎年あまり並んでいなかったのに、今年はイカナゴ漁の解禁日に、たまたまいつものスーパーに行くと、なんと生のイカナゴがお魚売り場に売っているではありませんか!
 しかし、値段は一キロ八千円だったのです。高すぎると思いましたが、よくみるとなんと夕方の値引きで半額になっていました。それでも買うか迷いましたが、こんな機会はもうないと思ったので買うことにしました。
 どんな料理にして食べようか考えて、まずイカナゴ本来の味を知ろうと、釜揚げで食べました。ほわっとしておいしかったです。その次に、いかなごのかき揚げといかなごの釘煮をお母さんと作りました。かき揚げは衣がカリッとして、イカナゴはほくっとして風味を味わえました。醤油をかけるとおいしかったです。
 いかなごの釘煮を作り始めると、砂糖をたくさん入れて煮込んでも、よく見る釘の姿に変わらなくて、大丈夫なのかと思いましたが、だんだん釘になっていきました。でも、混ぜすぎたので、あまり見栄えはよくなかったです。味見してみると、甘かったりしょっぱかったりしたので、色々調整して完成しました。ご飯と食べるとすごくおいしいです。生姜がきいていました。
 お友達みんなにくぎ煮を知ってほしいから一口ずつ食べてもらったら、すごくおいしいと言ってくれました。うれしくなりました。こんなおいしいものが一年中食べられたらいいな、もっと安く身近な存在になればいいなとぼくは思います。
 近年、人が環境を壊していっています。特に、冷たい海に住むイカナゴは、海水温の上昇で姿を消してきています。また、下水をきれいにしすぎたがため、海の中の栄養分の窒素などが減ってしまって、イカナゴが減る原因にもなっています。
 このようなことは全て人間がやったことなので、人間の手で戻さないといけません。一人が努力してもだめで、みんなの努力を集めると大きな一歩になると思います。この地球にはいかなごの問題だけではなく、他にもたくさんの環境問題があります。だからもっといろいろな人に今の環境を知ってもらい、それを改善するための行動に移してほしいです。
 百年先の未来でもいかなごの釘煮がたべられますように。
〈三田完・特別審査委員長講評〉
イカナゴ漁の復興を願う小学5年生の文章です。その熱意に心打たれます。

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© 2007- いかなごのくぎ煮振興協会